3月17日:発狂→臨死体験
とにかく、ここにいたら死ぬ。
そう思ったので、逃げる方法を色々考えていた。窓には鉄格子が入っているのでそこから逃げ出すのは無理。入り口では看護婦が常に僕を見張っていた。やはりこいつをなんとかしなくてはならない。殺されるぐらいなら殺すか。僕はリュックにカッターナイフが入っていることを思い出した。殺さなくても刃物を振り回せば効果はあるだろうし、騒ぎを起こせば警察も来てくれるかもしれない。僕はリュックを漁ってカッターナイフを取り出した。
しかし、当然見張りの看護婦はそれを見ている。「お前、それ何に使うんだ?」と訊いてきた。やるならその時だったが、やっぱりその勇気はなかった。
「いや、バナナの皮をむこうと思った」と苦しい返事をした。
「バナナをむくのに刃物は要らんだろう」と怪しまれたが、「お前の言っていることはわからない」と、僕はシラを切った。しかし、カッターナイフはリュックになおした。
昼間、外から僕の名前を呼ぶ声がする。これは僕を病院に連れて行ってくれた人が頼んでくれた、お見舞いの日本人たちではないか。僕は看護婦に会いに行っていいかと聞いたが拒否された。彼らも中に入ってきてくれたらいいのに、ずっと外で僕の名前を読んでいる。おそらく、彼らも中に入ることを拒否されているのだろう。仕方ないので部屋から助けてくれーと叫んだが、その声は届かなかったようだ。しばらくして、僕を呼ぶ声はなくなった。
しかし、やはり確信した。こいつらのやっていることは医療行為ではなく犯罪行為だと。
とにかく、ここから逃げないと。その方法を必死に考えていた。
そして、思いついた。気が狂ったふりをしてこの病院を出よう。精神病院に連れて行かれるかもしれないが、とにかくこの病院から出られたらそれでいい。どうするのか具体的なことも考えながら決行のタイミングを見計らっていた。
そして、消灯してしばらくして―
「あああああっちゃあああ!!!!」
僕は大声で奇声を発した。同時に点滴を引きちぎって立ち上がった。
看護婦やその他大勢の人が僕の部屋に集まってきた。
僕はさらに奇声を発しながら、下痢便を漏らした。尻のあたりがぬるくなる感触があった。そしてそれが内ももを伝って床に流れ落ちた。そしてそれを撒き散らし、叫び続ける。
最後はうんこ溜まりに寝っ転がってバタバタし始めた。もう何をやっているのか、自分でもわからなかった。
程なくして医者がやってきて尻にあの注射を打った。僕は意識を失って…はいなかった。
その後、僕は不思議な体験をした。
意識ははっきりしている。しかしあたりは真っ暗だ。前後上下もわからないところにいる。
そうか、僕は死んでしまったんだ…。
僕は自分が死んでしまったことがたまらなく悲しかった。人が死ぬことは悲しいことだ。その人が自分に親しければ親しいほど悲しみは大きい。しかし、他ならぬ自分が死んだのだ。これ以上悲しいことがあるだろうか。
しばらく僕は悲しみに浸っていたがしばらくすると考え始めた。
死んだら何も無くなると思っていたが、変な死に方するとこんな風になるのか。死体はそこら辺の川に流されるのだろうか。せめて魂だけでも日本に帰りたいと思った。そして僕が死んだら両親は悲しむだろうな、と思うとまた悲しくなった。
とにかく、あたりは真っ暗で、ひどく気分が悪かった。
…気がつけば、ベッドの上、天井で回り続けるファンを見ていた。
そうか、僕は生きていたんだ。
それに気づくまでしばらく時間がかかった。
【13年後のつぶやき】
この日のことは、その後、何度も何度も思い返した。自分にとって大きすぎる出来事だったので消化するのに時間がかかった。
まず、気が狂ったフリをして逃げようとしているが、実際ほとんど気が狂っていた。やってることが尋常ではない。
そして、注射を打たれてからの話だが、あれは一体何だったのか?一種の臨死体験だろうか。それとも夢でも見ていただけなのだろうか。今でもそれはわからない。